陳春先――中関村の先駆者の一人

今では、中関村のイノベーションという特徴があまりに多くの人に知られているために、ここを訪れる人が引きも切らない。ここには北京大學や清華大學などの百にもおよぶ大學があり、中國科學院などの百餘りの研究所、さらにはレノボ、グーグル、マイクロソフト、日立、NECなどの企業の研究開発センターがあり、中関村のイノベーションは至極當然のことのように思われる。

陳春先――中関村の先駆者の一人

このように研究教育機関が多いと、必然的に科學研究と産業が連攜すると思いがちだが、真っ先にこの仕事を行ったのは、ほとんどがこうした科學研究者の中でも「変人」であり、中でも陳春先は、真っ先に飛び出し「騒ぎを起こした」人物である。

陳春先(1934~2004)は中國科學院物理研究所の研究員(教授)であった。若い頃ソ連に留學し、後に改革開放の1978年、中國物理代表団のメンバーとして米國訪問に赴いた。彼はソ連でも中國でも數十年もの間、米國は腐り果てて沒落し間もなく崩壊するだろうとずっと聞かされていたが、飛行機を降りるなり、そんなことはまったくあり得ないことを見て取った。ソ連と中國の科學研究はほとんどが純粋な科學研究に屬するもので、たまに軍事産業と関係がある以外は、産業との連攜は極めて少なかった。米國の強さは科學技術とビジネスの結合にあり、中國が強大化するには科學技術とビジネスが一つになる必要があると痛感した。

1980年、陳春先はまず中國科學院と北京科學協會の聴眾に「訪米で得た感觸」を語った時、「観念を変えればわれわれも豊かになれる」と力説した。彼は雄々しくも「シリコンバレー企業」を創設すると宣言したのだ。中関村=シリコンバレー説はこの時から始まったと言えるが、実際には1980年以降の20年間、中関村はただの村であり、研究開発の中心地のシリコンバレーではなかった。

ジョブスは當初、車庫でアップルコンピュータを作った。1980年10月23日、陳春先は物理研究所の使われなくなった倉庫を片付け、「サービス部」を成立させた。中関村に私営の、あるいは常道に背く企業が初めてできたのだ。この時の倉庫清掃に參加したメンバーが、陳から5元の「晝食代」を受け取ったために、陳はたちまち「腐敗した科學技術グループが、公共の建物に侵入」との名聲を得た。ジョブスに比べると陳は中國社會の賛同を得ることができず、物理所ではかなり孤立していた。

陳春先――中関村の先駆者の一人

後に、陳は米國からチップを買って帰り、核融合電源スイッチをつくり、物理所などの多くの科學研究室や企業にその製品を売りつけ、自分のサービス部に3萬元を稼がせた。陳は従業員に一人當たり毎月7~15元の手當を発給し始めた。これがさらに「正業をせず、小遣い稼ぎばかりする」ということになり、陳はたちまち調査を受け、サービス部は解散させられた。たまたまこの時に新華社記者が関連の事件を取材して記事にしたおかげで、陳を危機から救い出した。

陳春先――中関村の先駆者の一人

その後、陳春先は20社餘りの企業を創設し、プロジェクトの失敗、取引の紛糾、非合法的な拘束など數えきれないほどの苦難を経たが、財産を蓄えるところまではいかず、研究所を辭めたために晩年になって普通の人が受ける福利待遇さえも失い、慘めな暮らしを送っていたそうだ。

中関村はもともと1980年代にジョブスのような人物を生み出しているはずであったが、當時の體制に制限され、陳春先はただ後に行く者のための道をつけたに過ぎなかった。

今日、中関村で活躍する企業家・創業者のほとんどは、かつて陳春先のような人物が居たことをもうなにも知らない。

中國日本商會HP2018年8月20日

陳春先――中関村の先駆者の一人


分享到:


相關文章: